Milと0

ダンディな人を求めて30歳で日本を旅立ち、ジョージクルーニー夫と出会いメキシコに落ち着く。メキシコ生活8年目。

メキシコ人からごめんなさいを引き出せずに悔しかった日

先日明らかに相手が悪いのに"ごめんなさい"を言われずに怒りが溜まってしまいました。私のアンガーマネージメントもまだまだだなと思わされたある日。

私はオフィスに入る前に「怒らない、怒らない、怒らない」と三度唱えています。たまに同僚に軽いジャブを食らうことはありますが、ほぼほぼありません。なのでこの唱えはあくまで仕事相手にです。メキシコでは怒っても相手に響きません。本当にゼロ。その響かなさを目の当たりにすると余計に怒りが増します。怒っても自分を負のスパイラルに陥れるだけ、完全に負けなのです。だから私は無駄に心の熱量を使わないために怒らないように日々精進しています。

先日仕事相手に3度も同じミスをされ迷惑を被りました。かなりのケアレアミス。事前にお知らせメールがあれば私はその現状をすんなりと受け入れられました。しかし彼らはそんな簡単なこともせず、クライアントからクレームを受けているのに謝りません。電話やメールをしても折り返し電話も返信メールもありません。私はどこかで意地スイッチが入ってしまい、彼らに”ごめんなさい”を言ってもらわないと気が済まないようになってしまいました。結果私の惨敗。メキシコ人は”ごめんなさい”を言うと死んでしまうのでしょうか…。結果は見えていたけれども挑まずにいられなかったこの闘い最終日、家に着いても消化出来ず。遂に”メキシコ人なんか嫌いだ”モードに突入。たったひとつの出来事でそんな風に思うなんてナンセンスで自分が陳腐に思えて自己嫌悪に陥ります。このくだらない憤りから解き放たれるために一人散歩へ行きました。15分程歩いて家の手前にある信号のない横断歩道で車がどんどん進み、杖をついたセニョーラが通れずに渉るタイミングを計らっていました。またエゴな運転手に腹が立ってしまいましたが、車の前に立ちはだかり車の流れを止めセニョーラが渉るのをお手伝いしました。セニョーラは”ありがとう、ありがとう”とお礼を言いながら去っていきました。ようやく私の怒りが浄化された瞬間でもありました。

”ごめんなさい”と”ありがとう”は魔法の言葉。日本の教育でそう教わりました。日本はごめんなさいは沢山言うけれども”ありがとう”は意識しないとなかなか出てきません。言われないと腹は立ちませんがモヤっとはします。例えば渡したお土産の感想が全くなかったりした時。ありがとう待ちをする自分もダサいかな…と思わされてしまいモヤモヤ。(ちなみにメキシコ人はありがとうはきちんと伝えてくれる!)このふたつを素直に伝えられる人こそ最強のコミ力。

先日メキシコの映画館で『パーフェクトデイズ』を観ました。同じルーティンで生活をしていても外へ出れば他者に傷付けられことも喜びを与えられることもある。毎日は同じ繰り返しでは決してない。人生の光と影。世界中の誰しもがこの同じ条件下で生きている。濃淡こそ人によって異なるけれど、自分の幸せな生き方を自分で知っていることこそ大事なことだと改めて映画のメッセージに心打たれました。若いうちはリミット期限のある選択を迫られどこか他人との競争のようにも思えました。壮年期後半からは選択は自分との向き合いでしか答えが出せない気がしています。映画の中では主人公の過去の詳細が描かれておらず(なんとなく描いている部分あり)、そこもまた強いメッセージを感じました。今。本当にいい映画。でも30歳の私にはきっと響かなった映画だろうな。