Milと0

ダンディな人を求めて30歳で日本を旅立ち、ジョージクルーニー夫と出会いメキシコに落ち着く。メキシコ生活8年目。

誰かと人生を共にすること

Netflix『マイ・ラブ:6つの愛の物語』、毎度涙なしには見れなかった。愛の強さよ。

アメリカ・スペイン・日本・韓国・ブラジル・インドそれぞれの国で長年付き添っている老夫婦を追うドキュメンタリー。人生長く生きていればいいことも悪いこともあったねとお互いがお互いの人生の生き証人、人生がいつか終わることを感じながら生きる普通の6組の夫婦の物語。自分の親世代に近い老夫婦たちに、親と照らし合わせながら、自分の人生と重ねながら。

私は結婚をしたいと思いながらも、20代は現実的に結婚を考えるような恋愛をしたことがなかった。誰かを強く必要に思ったこともなければ、思われたこともない人生。人生100年時代と言われるのに30歳までにパートナーを決めなきゃいけないという人生のアンバランスに疑問を抱きながらも、それが世の流れ。後々頑張らなかったことを後悔したくないと30歳で海外へ。

日本時代は沢山の友達から日々それぞれ刺激を受けながら、自分が成長していることが何よりも幸せを感じる瞬間だった。今も友達がいない人生なんて考えられない。でも私はいかなる友達とも距離を保っていて、もう少し近付きたくても近付かないタイプ。生活の一部を共有出来ても、生活自体の責任は共有出来ない。

でも思う、こうやって友達とパートナーを区別してしまうのがまずは良くないのかもしれない。子供時代に住んでいた家の近くには立派な家があって、池もあって、鯉も居て、おばあちゃんが4人くらいで一緒に暮らしていた。子どもだったからどうしてこの暮らしを選んだかなんていう背景を想像することもなく、こうやって友達同士で暮らすのも素敵だなって子ども心に思っていた。でもいつの間にかそんな家のことを忘れて、すっかり人生のパートナーは“愛“でしか得られないと思い込んで生きてきてしまった。

“人生1人がいい“という人もいると思うけれども、私には耐えられそうにもない。誰かを必要としたいし必要とされたい。自分の人生の生き証人が欲しい。自分が覚えていた思い出とパートナーが覚えていた事実が違って小競り合いをしながら笑ったりしたい。結婚して3年目。彼とは今のところうまくいってはいるけれど、人生は何があるか分からないから決して寄りかからないようにしている。紙約束でもそもそも約束がなくても、愛情であれ友情であれどんな人間関係でも近付けば多少の意見の言い合いがあるもので、充分に頑丈だとは思わない。絶対に切り離せないのは親子関係くらいではなかろうか。

それでも親子やパートナーだと「これを言ったら嫌われるかもしれない」という恐怖がなく自然体でいられる。私の今の平穏な生活は彼の存在から成り立っていることは紛れもない事実である。その関係性が一番もしくは世界で1つだけの花であることが前提とされ、時にその関係のありがたさを言葉として確かめ合うことができるからだ。友達は特別であったとしても一番という順列されたものではない。常に変わるであろう友人関係では、「あなたが一番」と言葉にする機会も大人になれば無いものである。そうともなれば生活の人生の責任を負いあうことが難しい。心底幸せになって欲しいと願うが、幸せにしたいと思うのはおこがましいのではないかと思ってしまう。この考えも結局は区別からやってくるのだろうが、やはり友達を縛ることも強制することも私には出来ない。曖昧さは不安を払拭出来ない。

今回ドキュメンタリーを見て、特別な誰かと生きることが素晴らしいと心底思った。私は未だ友達に全てを見せるのが怖い人間だが、自然体でいることをもっとオープンに出来るのであれば、人生のパートナーの在り方がひとつではないことに気付けるはずだ。